剣豪

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日本に剣術が発祥して依頼、多くの剣豪が現われました。日本の剣豪と彼らにまつわる逸話を集めてみました。 中条流系、新陰流系へ
江戸の剣客、幕末剣豪伝へ
1.兵法三大源流
剣術が武術として確立し始めたのは室町時代であり、その後、数々の流派が乱立していくが、その原型となっているのが天真正伝神道流、念流、陰流である。しかしながら、その流租である3人は、いずれも謎に包まれた人物である。
 飯篠長威歳家直(1387-1488?)
天真正伝神道流の流祖。下総国香取郡の生まれで、幼い頃から武芸に秀でていた。猪鼻城主・千葉胤直に仕えていたが、お家騒動で千葉家が断絶すると、香取神宮に程近い梅木山に隠遁する。香取神宮に祈願をしながら剣の修行に打ち込み、天真正(神が変じて現れた童子)から兵法の奥義を授かったとされている。また、剣術のみならず、それまで型のなかった、くさり鎌、棒術、長刀術、薙刀、槍術、小太刀、手裏剣、柔術、忍術など多岐にわたる武術の原型を作る。
〜逸話集・其の1〜
神道流の流祖・飯篠長威歳は「兵法は平法なり。敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ」の言葉の通り、相手の命を奪う危険のある他流試合を禁じていた。他流試合を望む者に対しては、熊笹の上に筵を敷き、その上に座って見せたと言う。熊笹を曲げずにその上に座る長威歳の所作を見て、相手は負けを認め、去っていった。まさに、戦わずして敵に勝つ極意である。
 慈音
念流の流祖。新田義貞の家臣・相馬忠重の子で、父が敵に殺れた時、難を避けて遊行上人に預けられて念阿弥と名乗る。鞍馬山で兵法修業に励み、念流を創始する。元服後、相馬四郎義元と名乗り父の仇を討つ。後に再び禅門に入り、念大和尚と名乗った。
 愛洲移香斎久忠(1452〜1538)
陰流の流祖。伊勢の豪族の子孫。また水軍とも関係があり明国にも渡航したことがあるとも伝えられている。兵法修行で各地を回り、常陸国鹿島神社の末社鵜戸権現に兵法成就を祈誓し、岩屋に参籠して神託を得て、陰流を開いた。この時、権現は猿の形に変じて兵法を示したと伝えられている。陰流は上泉秀綱(信綱)に伝わり、新陰流として確立され発展した。
2.神道流系
飯篠長威斎の天真正伝神道流の流れを汲む流派。
 塚原卜伝高幹(1489-1571) 
新当流の開祖。常陸国塚原で生れる。塚原土佐守安幹の養子となり、新右衛門高幹を名乗る。養父・安幹や松本備前守から天真正伝新道流を学ぶ。その後、戦場や真剣勝負などの実戦で技を磨き、新当流奥義「一の太刀」を完成させる。また、武芸に秀でていた足利13代将軍・義輝や伊勢の国司・北畠具教や細川幽斎にも兵法を教示した。
〜逸話集・其の2〜
卜伝には3人の養子がいたが、家督を譲るために3人の息子の心がけを試そうと考えた。鴨居の上に木枕を置き、襖を開けると木枕が落ちるような仕掛けをした。長男・彦四郎は、見越の術で木枕を見破り、木枕取り除いて部屋に入ってきた。次男は木枕が落ちてくるとさっと退き、刀の柄に手をかけ、落ちてきた物が木枕であることを確認して入ってきた。三男は落ちてきた木枕を真二つに切って、入ってきた。これを見た卜伝は長男・彦四郎に家督を譲ることに決めたという。
斉藤伝鬼坊(1550-1587)
常陸国井手村に生れる。塚原卜伝に新当流を学ぶ。卜伝の死後は、他に師事するこのなく、独自に天道流を創始する。その後も回国修行を続け、京へ上り、一刀三礼の太刀を天覧に入れ、諸国に天道流の名声を広める。故郷に戻ってからも伝鬼坊の評判を聞き、多くの入門者があったが、卜伝の門弟でもある真壁城主・真壁氏幹とその弟子らに疎まれる。真剣勝負で伝鬼坊に息子を殺された真壁家の重臣・桜井大隈守に試合を申し込まれ、2人の弟子と共に立ち合いの場に出向いたところを、30人を超える大隈守の家臣に弓で射殺された。
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