6.幕末剣豪伝
政治情勢が不安定な幕末に差し掛かると、再び剣豪の活躍の場が与えられた。幕末の江戸では三大道場として北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡神明智流の士学館が有名である。 |
千葉周作成政(1793-1856)
生地は定かではない。父・千葉忠左衛門成胤は元は剣術家であったが獣医を開業。親元を離れ、中西派一刀流の浅利義信に入門する。木刀を用いる浅利の稽古方法に異を唱え独立し、北辰一刀流を創始する。日本橋に開いた玄武館道場は、後に神田・お玉が池に移転し、数多くの門弟を抱えるようになる。何かと精神論的になりがちな剣術を簡素化して教示する、云わば近代剣術の先駆者的な存在である。門弟には清河八郎、山岡鉄舟や後の新撰組総長・山南敬助などがいる。 |
| 斉藤弥九郎(1798-1871) |
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| 桃井春蔵(1825-1885) |
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男谷精一郎信友(1798-1864)
男谷新次郎信連の子として生まれ、後に男谷彦四郎忠果の婿養子となる。直心影流の団野真帆斎に入門する。また、兵法を平山行蔵に学び、宝蔵院流槍術や吉田流射術にも熟達した。真帆斎の死後、亀沢の道場を譲り受ける。1855(安政2年)年、予てから建議してきた講武所が開設され、講武所頭取並、剣術師範役を兼務する。他流試合を推奨し、道場に立ち合いを申し出て来る者があれば、自らが進んで立ち合い、3本のうち1本は必ず相手に取らせたと言う。温厚で誠実な人格者で、「幕末の剣聖」と称された。養父・彦四郎の弟に小吉がおり、後に勝家に養子に入り、その息子が勝海舟である。 |
〜逸話集 其の5〜
九州一円で名声を上げた島田虎之助が江戸に乗り込み、数々の道場で立ち合いを申し込み連戦連勝であった。男谷の道場にも訪れ、男谷と立ち合ったが、例の如く1本目と3本目は男谷が軽く取り、2本目は島田が取った。敗れはしたが「さほど強くないな」と感じた島田は次に同じ直心影流の井上伝兵衛の元を訪れるが、ここで井上に完膚なきままに打ちのめされる。島田は井上に弟子入りを願うが、井上は「私くらいの剣術家はいくらでもいる。亀沢の男谷先生の所には行ったか?」と言うので、「既に立ち合ったが大した事なかった」と答えると、井上は「それはお主の力量が足りぬからだ。紹介状を書くからもう一度行くがよい」と言った。再度、男谷と立ち合った島田は全くなすすべがなく、すぐに男谷に弟子入りを願い出たという。 |
近藤勇昌宜(1834-1868)
武蔵国多摩の宮川久次郎の三男として生まれる。1849年(嘉永2年)、天然理心流の近藤周助の養子となる。四代目・宗主となり試衛館道場を継ぐ。門弟には、後に新撰組で活躍する土方歳三、沖田総司、永倉新八らがいた。将軍・家茂上洛の警護のために募集された浪士組に参加し、1863年(文久3年)京へ向かう。浪士組はすぐに江戸に戻ることになるが、脱退し京に残り、京都守護職・松平容保の庇護の下、「新撰組」を結成し、池田屋事件で名声を上げる。その後も佐幕を貫き、新政府軍と戦い続けるが、下総国流山で捉えられ、斬首された。 |
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| 沖田総司(1842-1868) |
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| 山岡鉄舟(1836-1888) |
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