剣豪
日本に剣術が発祥して依頼、多くの剣豪が現われました。日本の剣豪と彼らにまつわる逸話を集めてみました。 兵法三大源流、神道流系へ
中条流系、新陰流系へ
5.江戸の剣客
戦国時代も終わり太平の世となり、剣豪がその腕を振るう場がなくなっていったが、決闘・仇討ちなどを題材とした講談や小説などでお馴染みの剣客も数多い。
 宮本武蔵(1584-1645)
兵法家・新免無二斎の子と伝えられているが定かではない。二天一流の開祖。13歳の時に、新当流の有馬喜兵衛と戦って依頼、29歳までの間に60数回にわたる決闘で一度も敗れたことがないと自ら「五輪書」に綴っている。1637年の島原の乱では養子・伊織が使える小笠原家に従い出陣。この時は敵の投石に不覚を取ったと伝えられる。1640年には熊本城主・細川忠利に招かれ熊本に移り、晩年は金峰山の霊厳洞の中で「五輪書」の執筆に取り掛かる。また、芸術家としても水墨画など数多くの作品を残している。
 佐々木小次郎(?-1612)
中条流の鐘捲自斎の弟子と言われている。1612年、関門海峡に浮かぶ船島での宮本武蔵との決闘はあまりにも有名であるが、小次郎の生まれ年や存在自体、かなり謎な部分が多い。
 柳生十兵衛三厳(1607-1650)
柳生宗矩の長男。幼少時代に新陰流・燕飛の稽古中に父・宗矩の木刀を受け損ねて失明したとも言われるが、実際に隻眼であったかどうかは定かではない。宗矩の命を受け、幕府の隠密として諸国を漫遊していたとの説もある。
 荒木又右衛門(1598-1638)
伊賀に生まれる。12歳で本多政朝の家臣・服部平兵衛の養子となる。26歳の時に養家を離れ伊賀に戻り、姓を荒木に改めた。大和郡山城主・松平忠明に剣術指南役として仕えていたが、妻の弟で岡山藩家臣・渡辺数馬の敵討ちの助太刀をして名を上げた。又右衛門が新陰流を学んだのは、敵討ちの後、剣の未熟を知り新陰流の戸波又兵衛に入門してからであり、新陰流の使い手として敵討ちで派手に活躍したのは講談・小説の中の話である。
歴史小説に見る剣豪
6.幕末剣豪伝
政治情勢が不安定な幕末に差し掛かると、再び剣豪の活躍の場が与えられた。幕末の江戸では三大道場として北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡神明智流の士学館が有名である。
 千葉周作成政(1793-1856)
生地は定かではない。父・千葉忠左衛門成胤は元は剣術家であったが獣医を開業。親元を離れ、中西派一刀流の浅利義信に入門する。木刀を用いる浅利の稽古方法に異を唱え独立し、北辰一刀流を創始する。日本橋に開いた玄武館道場は、後に神田・お玉が池に移転し、数多くの門弟を抱えるようになる。何かと精神論的になりがちな剣術を簡素化して教示する、云わば近代剣術の先駆者的な存在である。門弟には清河八郎、山岡鉄舟や後の新撰組総長・山南敬助などがいる。
 斉藤弥九郎(1798-1871)
 桃井春蔵(1825-1885)
 男谷精一郎信友(1798-1864)
男谷新次郎信連の子として生まれ、後に男谷彦四郎忠果の婿養子となる。直心影流の団野真帆斎に入門する。また、兵法を平山行蔵に学び、宝蔵院流槍術や吉田流射術にも熟達した。真帆斎の死後、亀沢の道場を譲り受ける。1855(安政2年)年、予てから建議してきた講武所が開設され、講武所頭取並、剣術師範役を兼務する。他流試合を推奨し、道場に立ち合いを申し出て来る者があれば、自らが進んで立ち合い、3本のうち1本は必ず相手に取らせたと言う。温厚で誠実な人格者で、「幕末の剣聖」と称された。養父・彦四郎の弟に小吉がおり、後に勝家に養子に入り、その息子が勝海舟である。
〜逸話集 其の5〜
九州一円で名声を上げた島田虎之助が江戸に乗り込み、数々の道場で立ち合いを申し込み連戦連勝であった。男谷の道場にも訪れ、男谷と立ち合ったが、例の如く1本目と3本目は男谷が軽く取り、2本目は島田が取った。敗れはしたが「さほど強くないな」と感じた島田は次に同じ直心影流の井上伝兵衛の元を訪れるが、ここで井上に完膚なきままに打ちのめされる。島田は井上に弟子入りを願うが、井上は「私くらいの剣術家はいくらでもいる。亀沢の男谷先生の所には行ったか?」と言うので、「既に立ち合ったが大した事なかった」と答えると、井上は「それはお主の力量が足りぬからだ。紹介状を書くからもう一度行くがよい」と言った。再度、男谷と立ち合った島田は全くなすすべがなく、すぐに男谷に弟子入りを願い出たという。
 近藤勇昌宜(1834-1868)
武蔵国多摩の宮川久次郎の三男として生まれる。1849年(嘉永2年)、天然理心流の近藤周助の養子となる。四代目・宗主となり試衛館道場を継ぐ。門弟には、後に新撰組で活躍する土方歳三、沖田総司、永倉新八らがいた。将軍・家茂上洛の警護のために募集された浪士組に参加し、1863年(文久3年)京へ向かう。浪士組はすぐに江戸に戻ることになるが、脱退し京に残り、京都守護職・松平容保の庇護の下、「新撰組」を結成し、池田屋事件で名声を上げる。その後も佐幕を貫き、新政府軍と戦い続けるが、下総国流山で捉えられ、斬首された。
 沖田総司(1842-1868)
 山岡鉄舟(1836-1888)