4.新陰流系
上泉伊勢守が創始した新陰流は、柳生家へと受け継がれ、柳生宗矩が徳川家康に仕えて後は徳川家のお家流となり、日本を代表する流派へと発展した。 |
上泉伊勢守信綱(1508- ?)
新陰流の開祖。父・秀綱の跡を継ぎ大胡城主となる。若い頃より、念流、神道流など諸流を学び、陰流の祖・愛洲移香斎より極意を授かり、新陰流を創始する。北条氏康により大胡城落城後、箕輪城主長野信濃守業正の配下となり功を上げ、長野十六人槍に数えられる。永禄六年、武田晴信の箕輪城攻略により落城。武田軍に加わえられるが、諸国を巡っての新陰流の弘流を希望し、武田家を辞した。上洛後はその兵法を将軍足利義輝に上覧し、従四位下に叙せられる。後に「剣聖」と謳われた。 |
丸目蔵人佐(1540-1629)
肥後の生まれ。相良家に仕え、数々の戦功を挙げ、剣術において九州一円に知れ渡るようになる。本土に渡り修行をした後、1558年(永禄元年)、上泉伊勢守の弟子となる。将軍足利義輝の御前での兵法上覧に際しては、伊勢守の打太刀を務めるなど、新陰流の中にあっても頭角を現す。徳川の天下になって後は、肥後に戻り、相良家の剣術指南役となり、タイ捨流を創始する。 |
〜逸話集・其の3〜
徳川の天下になって後、丸目蔵人佐が江戸に来た際に柳生宗矩の元を訪れた。何せ伊勢守の弟子時代は柳生宗厳よりも腕は上だという自負があった。その子せがれが、今や天下一の兵法家だというのだから黙ってはいられない。しかし、蔵人佐と面会した宗矩は丁重に「天下一とは世間の勝手な噂。私のような若輩者は丸目殿には到底及びませぬ。しかしながら、徳川家の評判を落とすわけにはいきませぬ。ここは私は東日本一、丸目殿は西日本一という事にして頂けないか」と申し出て、丸く収まったという。 |
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柳生石舟斎宗厳(1527-1606)
幼少より兵法鍛錬に精を出し、五機内で並ぶものなしとも言われた。1563年(永禄6年)、上泉伊勢守一行が大和にきた折に、弟子の疋田豊五郎と三度試合をし、三度負けて、伊勢守に弟子入りした。「無刀取り」の術を完成させ、伊勢守より新陰流二世を印可相伝。1594年(文禄3年)、徳川家康の御前で兵法を披露し、剣術指南役として請われたが、老齢を理由に固辞し、変わりに五男・宗矩を推挙する。後の新陰流盛隆のきっかけを作った。 |
柳生但馬守宗矩(1571-1646)
柳生石舟斎の五男。文禄3年、徳川家康に召し抱えられ、1600年(慶長5年)、関が原の戦いの功により、旧領大和柳生荘2千石を与えられる。二代将軍・秀忠、三代・家光の兵法指南役となり、将軍の絶大な信頼を得る。1629年には従五位下に叙され、1632年には幕府総目付となり、諸大名の監視役を任された。1636年の加増により1万石となり、剣術家としては異例の大名にまで上り詰めた。 |
〜逸話集・其の4〜
剣術家としてよりも政治家としての一面が大きく取り上げられる柳生宗矩ですが、剣の腕も当然確かであった。大阪夏の陣で、天王寺の秀忠の本陣に木村重成の兵が奇襲をかけてきた。この時、秀忠の傍らに居た宗矩が敵兵7人を瞬く間に切り倒した。ちなみに宗矩が生涯に切った人の数はこの7人のみであるという。 |
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